縁あって葉加瀬太郎のコンサートに行って来ました。
楽曲のクオリティの高さはもちろん、おしゃべりやその他のパフォーマンスも素晴らしく、感動し、また行きたいと思いました。
今回のツアータイトルは『エトピリカ』でした。エトピリカはテレビ番組『情熱大陸』のエンディング曲です。コンサートでは、のっけから『エトピリカ』で始まりました。
私の中ではエンディング曲というイメージが強く、それを一曲目に聴いたとき、生きることに終わりはないんだなという感想を抱きました。
ハカセンス(葉加瀬の扇子)も買いました。その面白く巧みな営業トークに買わされてしまったという感じでした^^;
ハカセンスはコンサートで『情熱大陸』のときに必要なのです。
さて、音を楽しむと書いて音楽という言葉になりますね。
どういうことかわかりますか?
宇宙は音から始まったと聞いたことがあります。
音には意味がありません。
ただの周波数に過ぎません。
音に意味を持たせているのは、私たちの過去の記憶です。
音楽もそうなんです。
メロディーは、ドライな言い方をすれば音の羅列です。
その羅列に感動するのは、メロディーを聴く人の記憶によります。
メロディーとは音の羅列であり、一音一音に分解すると、それは単なる「音」でしかありません。
私たちの脳が記憶し過去の音と今この瞬間に発せられた音の組み合わせ、そしてその後の音の組み合わせにより脳内で再現された音の組み合わせ(つまりメロディー)を認識したもの(音)を楽しむことが音楽です。
音楽は人間の記憶の機能があるからこそ楽しめるのだと思います。
視覚も同じことが言えます。私たちの目は二次元で平面的にしか認識できないそうです。テーブルの上のマグカップの向こう側の面はこちらから見えていないのに、マグカップの全体像がわかっているつもりになっているのは、脳がマグカップの向こう側を勝手にイメージしているからに過ぎないそうです。ですから、厳密に言えば現実を正しく認識しているわけではないと言えます。
もう一つ言えば、触覚もそうですね。マッサージを受けて気持ち良いと思うときの感覚は、痛覚です。痛覚の強弱の違いでしかありません。イタギモという感覚も痛覚です。
心地良いマッサージを受けているときは、そのときのシチュエーションやマッサージをしてくれる人を、自分の過去の記憶による価値観が許せているかどうかです。
で、始めに戻りますが音楽もそうです。音そのものを正しく認識することはできるかもしれませんが、その音楽に対する印象は人それぞれなのは、人それぞれ過去の記憶が違うからでしょう。
また、過去の体験により聴きたい音楽が決まってくることはよくある話ではないでしょうか。
過去の記憶と言えば、過去世の記憶や幼少時の記憶が取り沙汰され、それらをヒーリングしましょうと言ったりしますが、音楽を考えた場合、私たちは一瞬前の記憶にすら支配されていると思います。一瞬前の記憶もそれ以前の記憶の影響を受けていますが。
それだけ、記憶は私たちの価値観を左右するものです。私たちの価値観を過去の記憶が決めています。
それを手放し自由になりましょうと言っているのに、まぁ余談ですが、宗教を理解するときなど、過去の教えを大事にしましょうと言って自分を見失うのは本末転倒です。過去の教えこそに意味があり大事なんだという誤解で宗教を理解すると間違います。
他人の意味づけは他人のものでしかありません。また、他人のために頑張るという意識が無理や挫折を生みます。それは自分を嫌う意識から出発しています。
私は今回のコンサートでそんな気づきを得ました。
これは、CDや録画した番組では気づきにくいと思います。
ライブでなければ気づきにくいと思います。
ライブは「いまここ」を感じるのに最高のシチュエーションだと思います。
また、会場に集まった人たちに共通しているのは葉加瀬太郎ファンや葉加瀬太郎に少なからず関心がある人たちであるとは言え、それとは別の一体感というものを感じました。
そんな音楽の理解から、楽しむのも苦しむのも自由選択だと認識することができました。山あり谷ありの人生も視点の持ち方次第です。山や谷がフラットになることはありません。フラットな世界は退屈な世界です。
意味づけは悪いことではありません。自分が楽しめる意味づけをするために視点を変え価値観を変える自由があるのに、私たちは一つの視点や価値観に自分自身を縛り付けています。
本来意味がない世界に意味づけしているのが自分自身だとしたら、自由な意味づけをどんどんやれば、それこそが幸せでしょう。
もちろん葉加瀬太郎がそんなことを考えろと言ってこのコンサートを開催したわけではなく、私の勝手な理解に過ぎません。
葉加瀬太郎のコンサートに、また行きたいと思います。
ハカセンス持って(^ ^)