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    意味はない

    2014.11.26 Wednesday 12:20
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      私は幸田先生に自己観察を学びました。
      このブログに何度か書いたことがあると思いますが、幸田先生が若い頃に、あるスピリチュアルのセミナーに参加して頭デッカチだと散々言われ、その後自己観察していき自分の頭デッカチを認め許したときに誰にも頭デッカチだと言われなくなったという話があります。
      それを聞いた私は、頭デッカチでもオーケイなんだという理解をしました。多くの人は私のような理解をするのではないかと思いますが、そもそもそれが大きな間違いです。
      当時の私のような理解では、頭デッカチがオーケイという新たな概念が自分に備わったに過ぎません。
      これでは、心に新たなゴミを増やすだけです。
      当時の幸田先生の言わんとするところは頭デッカチという概念に自分自身が振り回されなくなったということです。

      違いがわかりますか?

      頭デッカチで良いという他人の言葉や意味づけに安心することと、自分自身の解放とは違うということです。
      頭デッカチで良いという他人の言葉に安心するだけでは、また違う人に頭デッカチはダメだと言われたら混乱することになります。それは自己解放ではありません。
      他人の言葉による意味づけに振り回されなくなったとき、その自己観察や自己解放は成功したと言えます。

      ですからこの場合、頭デッカチだろうが何だろうがどうでも良い話だということになります。
      どちらの方が良いと思われる人は、その人なりの視点があるに過ぎません。

      私が体験したことでは、似たような事例があります。
      私はなんとなくマクロビオティックを食事の指針にすることが多いです。
      すでに他界された大森先生を尊敬していますが、その大森先生がかつて「動物性を食べることは宇宙の法則に反する」と言って桜沢先生に褒められたというエピソードがあるそうです。
      そのエピソードはそれで良いと思います。
      しかし、動物性を食べることが宇宙の法則に反するということが本当に法則であり全人類に通じるものではありません。
      そう思う人には通じ、そう思わない人には通じないというのが、それこそが法則であると私は思います。
      そんな話がありながらも、私は私の価値観でマクロビオティックを実践しています。


      このことに意味はあるのだろうか?
      とか、何か意味があるに違いない!と思うクセがある人は多いと思いますが、結局のところ意味づけをしているのは自分自身でしかありません。
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      それは音楽

      2014.11.19 Wednesday 17:25
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        縁あって葉加瀬太郎のコンサートに行って来ました。
        楽曲のクオリティの高さはもちろん、おしゃべりやその他のパフォーマンスも素晴らしく、感動し、また行きたいと思いました。

        今回のツアータイトルは『エトピリカ』でした。エトピリカはテレビ番組『情熱大陸』のエンディング曲です。コンサートでは、のっけから『エトピリカ』で始まりました。
        私の中ではエンディング曲というイメージが強く、それを一曲目に聴いたとき、生きることに終わりはないんだなという感想を抱きました。

        ハカセンス(葉加瀬の扇子)も買いました。その面白く巧みな営業トークに買わされてしまったという感じでした^^;
        ハカセンスはコンサートで『情熱大陸』のときに必要なのです。



        さて、音を楽しむと書いて音楽という言葉になりますね。
        どういうことかわかりますか?

        宇宙は音から始まったと聞いたことがあります。

        音には意味がありません。
        ただの周波数に過ぎません。
        音に意味を持たせているのは、私たちの過去の記憶です。

        音楽もそうなんです。
        メロディーは、ドライな言い方をすれば音の羅列です。
        その羅列に感動するのは、メロディーを聴く人の記憶によります。
        メロディーとは音の羅列であり、一音一音に分解すると、それは単なる「音」でしかありません。
        私たちの脳が記憶し過去の音と今この瞬間に発せられた音の組み合わせ、そしてその後の音の組み合わせにより脳内で再現された音の組み合わせ(つまりメロディー)を認識したもの(音)を楽しむことが音楽です。
        音楽は人間の記憶の機能があるからこそ楽しめるのだと思います。
        視覚も同じことが言えます。私たちの目は二次元で平面的にしか認識できないそうです。テーブルの上のマグカップの向こう側の面はこちらから見えていないのに、マグカップの全体像がわかっているつもりになっているのは、脳がマグカップの向こう側を勝手にイメージしているからに過ぎないそうです。ですから、厳密に言えば現実を正しく認識しているわけではないと言えます。
        もう一つ言えば、触覚もそうですね。マッサージを受けて気持ち良いと思うときの感覚は、痛覚です。痛覚の強弱の違いでしかありません。イタギモという感覚も痛覚です。
        心地良いマッサージを受けているときは、そのときのシチュエーションやマッサージをしてくれる人を、自分の過去の記憶による価値観が許せているかどうかです。

        で、始めに戻りますが音楽もそうです。音そのものを正しく認識することはできるかもしれませんが、その音楽に対する印象は人それぞれなのは、人それぞれ過去の記憶が違うからでしょう。
        また、過去の体験により聴きたい音楽が決まってくることはよくある話ではないでしょうか。

        過去の記憶と言えば、過去世の記憶や幼少時の記憶が取り沙汰され、それらをヒーリングしましょうと言ったりしますが、音楽を考えた場合、私たちは一瞬前の記憶にすら支配されていると思います。一瞬前の記憶もそれ以前の記憶の影響を受けていますが。
        それだけ、記憶は私たちの価値観を左右するものです。私たちの価値観を過去の記憶が決めています。
        それを手放し自由になりましょうと言っているのに、まぁ余談ですが、宗教を理解するときなど、過去の教えを大事にしましょうと言って自分を見失うのは本末転倒です。過去の教えこそに意味があり大事なんだという誤解で宗教を理解すると間違います。
        他人の意味づけは他人のものでしかありません。また、他人のために頑張るという意識が無理や挫折を生みます。それは自分を嫌う意識から出発しています。
        私は今回のコンサートでそんな気づきを得ました。
        これは、CDや録画した番組では気づきにくいと思います。
        ライブでなければ気づきにくいと思います。
        ライブは「いまここ」を感じるのに最高のシチュエーションだと思います。
        また、会場に集まった人たちに共通しているのは葉加瀬太郎ファンや葉加瀬太郎に少なからず関心がある人たちであるとは言え、それとは別の一体感というものを感じました。

        そんな音楽の理解から、楽しむのも苦しむのも自由選択だと認識することができました。山あり谷ありの人生も視点の持ち方次第です。山や谷がフラットになることはありません。フラットな世界は退屈な世界です。

        意味づけは悪いことではありません。自分が楽しめる意味づけをするために視点を変え価値観を変える自由があるのに、私たちは一つの視点や価値観に自分自身を縛り付けています。
        本来意味がない世界に意味づけしているのが自分自身だとしたら、自由な意味づけをどんどんやれば、それこそが幸せでしょう。

        もちろん葉加瀬太郎がそんなことを考えろと言ってこのコンサートを開催したわけではなく、私の勝手な理解に過ぎません。


        葉加瀬太郎のコンサートに、また行きたいと思います。
        ハカセンス持って(^ ^)
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        想定外に弱い理由

        2014.11.18 Tuesday 17:40
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          問題解決の習慣化を鍛えるには、子供時代にあっては学校の科目の勉強が一般的ですが、必ずしも勉強ではなくても、親の仕事の手伝いであっても、昔なら丁稚奉公であっても何でも良いわけです。

          魚を与えるのではなく魚の釣り方を教えるとは、このことです。

          この体験がなければ、大人になっても、たとえそこそこの肩書があっても自分が与えられた環境の中でなければ生きることは難しいでしょう。

          それが、想定外に弱い理由です。

          想定内とは、誰かが勝手に想定し都合の良い理屈を集めたものに過ぎません。そこには必ず「都合」というワクがあります。

          そもそも、自然現象が想定内だなんて誰が決めたことか?
          ちょっと考えれば誰でもわかることです。

          ただ安心を得るために、都合の良い理屈を集めるクセから脱却する必要があります。

          理屈は自分の都合良さにしかはたらきません。

          理屈を集めたくなる前に一瞬感じるハートの声に注目してみましょう。

          自分にとってそれがすべてですが、すべてを他人に理解されるとは限りません。
          他人には他人のハートの声があります。それを自分が理解しているかを考えたとき、理解しているつもりになっている100%主観の自分がいるはずです。
          同じように他人も100%主観で生きています。
          その他人が鏡の法則により、自分の目の前にいます。

          過去の頼りない体験から未来を想定するよりも、いまここの鏡に映る自分を感じ続け、能動的な意志を持つことがはるかに重要です。
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          問題解決の習慣があるかどうか

          2014.11.16 Sunday 17:45
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            子供の頃、勉強が役に立つのか?と思うことはよくありました。
            大人なってからそう思うこともありました。

            しかし、最近そう思わなくなりました。
            やはり、子供の頃の勉強は大切だと思うようになりました。

            確かに、子供の頃に学んだ科目の具体的な知識はそれほど大事だとは思わないものもあります。
            大事なことは、試験対策をすることにより、問題を解決する方法を見つけ、行動する能力が磨かれることです。

            学校で学ぶ科目が大切に思えない理由の一つに、その科目を学んだ後の子供に責任が課せられないことが挙げられると思います。
            大人は実社会で何か学ぶと、責任が問われることが多いために大人になってから学んだ知識が大切に思えるというだけのことであり、その知識がどの場面でも大切だとは言い切れません。
            そのように学校で科目を学ぶことに責任が問われないメリットを子供たちはもっと生かした方が良いと感じる今日この頃です。大人である今だからこそ言えることかもしれません。
            知識を蓄えることが重要ではなく、今後の試験を受けるにあたりその対策をいかにするかというプロセスが最も重要です。
            ですが、傾向と対策を学校の先生なり予備校の講師なりに学んでしまうと、豊富な知識を仕入れることはできますが、単なるマニュアル人間になり、これは実社会では役に立ちません。それはある意味、大きなチャンスを逃すことになると言えます。
            高学歴が役に立たないと言われる理由の一つでしょう。教える先生が単なる便利屋ではダメです。
            自力で試験に合格した人はこの限りではないと思いますが、お受験対策にブロイラー的に育てられてしまうと大人になってからは単なるマニュアル人間に成り下がります。

            子供の頃に問題解決の習慣を養う生き方をしてきたかどうかが、生き生きとした活力ある大人になるかどうかのポイントです。


            これは、営業マンにしても、スピリチュアルを学ぶ人にしても、成功法則を学ぶ人にも言えましょう。
            有名な先生の言葉を知識として仕入れるだけのムダな人生になってるかどうかを吟味する必要があります。
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            プレミアムあんパン

            2014.11.09 Sunday 08:20
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              職場のそばにあるパン屋のプレミアムあんパンが大人気だ。
              他の地域の人には知られていないそのパン屋のプレミアムあんパンが、その地域では大人気。
              だいたい昼前11時過ぎに店に並ぶも、2時頃には売り切れということが多い。
              我が職場でも話題になり、私も美味しく食べた。


              なんでこんなに人気があるのかな?


              UFOは存在するのかな?
              という疑問と大差ないことに気づく。

              わからなくて良いこともある。
              むしろ、わかったからと言って「だから何?」ということが多い。
              その人が気になることがわかっただけであり、他人のそれと一致するとは限らない。

              美味しいと思えば食べたら良いし、存在すると思う人には存在する。
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              自分次第

              2014.11.08 Saturday 13:55
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                言霊には力があると言われています。
                私は、言霊に力があるのではなく言霊に力を与えている私たちがいるだけではないかと思っています。

                それは、私たちにその価値観があり、私たちが意味づけしているからに他ならないということになります。

                意味づけをしているからには、その意味に支配されていることになります。
                それすらワクなのです。
                それも不自由の一つですが、その意味づけを活用し楽しみの一つとして生かす自由もあります。
                そこで楽しんで、いつかそのワクすら超えるときが来るような気がします。
                私も、それまでは言霊の力を活用したいと思います。

                すべては自分次第。
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                100%主観

                2014.11.03 Monday 07:50
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                  客観的に物事を見ることが良しとされ、冷静な自分でいることに優越感を抱いている人は少なくないと思います。
                  そこに様々な理屈を用意し、その引き出しが多いほど優れているという誤解を、かつての私も抱いていました。
                  このブログも書き始めの頃からしばらくは、なるべく客観的な記事を書こうと思っていましたが、それに意味がないことに気づき、途中でやめました。

                  ある程度客観的に見ることはできても、完全なる客観視はできないようです。
                  私たち人間は、どうやら100%主観で物事を見ています。たまたま他人と視点が一致したときに客観的に見ているつもりになりますが、それすら主観です。

                  そう考えると、他人に認められたいというのは、完全に自分の欲望でしかないことがわかります。
                  他人には他人の主観があります。
                  調和とは他人の主観をどれだけ受け入れられる自分の器があるかどうかとも言えるかもしれません。
                  そしてそれは、自分の主観をどれだけ自分自身が受け入れられるかということの鏡でもあります。

                  また、生活の中で誰もが100%自己主張しています。
                  「私は大人しく控え目です」という人であってもそういう自己主張をしていることになります。反対側の視点から見れば、「私は積極的に動く気はありません」と自己主張していると思われてしまうでしょう。

                  自分が主観で物事を見て自己主張して生きていることに気づくことが「目覚め」だと思います。
                  前述したように、自分ができることは自分を受け入れ認めることです。他人は鏡です。

                  新人営業マンが自分の会社の取扱商品が売れなくて自分の営業成績が悪いと言って嘆いているとしましょうか。
                  商品がイマイチだとか、価格が高いとか、ロクな研修を受けさせてもらえないとか、さらには自分はまだ新人だから未熟で当たり前だという制限をしてしまっているとか・・・。
                  昔の私はよくやっていました^^;

                  全部、そういう意味づけを私自身がしていました。
                  渦中にいるときは、環境が悪いとしか思えないものですが、その環境は私の内面を映す鏡でしかありません。
                  前回の記事のタイトルではありませんが、すべて自己責任です。

                  自分の主観により、自己責任において自己主張(自己表現)をして現実を創造し続けていく最中に私たちはいます。

                  このように書いた内容すら私の主観です。
                  私はそれを受け入れています。
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